太鼓と出会うまでの時間(その1) | 富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』

富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』

太鼓打ち・富田和明の、太鼓と関係あることないことをその日の気分で綴る、和太鼓ドンドコ日記






 20歳の夏、8月1日。


 新宿厚生年金会館小ホールで「佐渡の國鬼太鼓座」コンサートを見たことが切っ掛けで、佐渡に渡る決心をした話は何度か書きましたが、今日はその前夜(至るまで)のお話をしたいと思います。


 


 


 18歳になったばかりの春、淡路島から横浜に上京してきた僕は、まず学校(横浜放送映画専門学院/現・日本映画学校の寮があった日吉に住んでいました(このことも先日日記で触れました)


 ある日のこと、当時僕の愛読書だった雑誌PHPが特集記事として取り上げたのが「佐渡の國鬼太鼓座」でした。これを読んでガゼン興味を持った僕は、春休みに一人で佐渡に遊びに行くことにしたのです。


 余談ですが、当時のもう一冊の愛読書「リーダーズ・ダイジェスト」には高橋竹山さんが紹介され、三味線に初めて興味を覚えたのが高校三年です。


 話を戻します。


 


 


 こうして淡路~横浜~佐渡、が初めて線で結ばれました。いきなり淡路島の人間が佐渡島には渡れません(僕の祖先の一人が佐渡で亡くなっていた話はずいぶん後に知りましたが)


 初めて佐渡に渡ったのが、1976年の3月27日の朝。前夜に上野から夜行の佐渡4号に乗り、翌日佐渡汽船で日本海を渡りました。


 


 


 その頃の多くの若者が熱中していたように同じく、正しい日本ユースホステル会員として、スタンプを集めることに没頭していた僕は、ただ単に「遠くへ行きたい」切っ掛けが欲しかったのかもしれません

 
が、とくにかく淡路島以外の島にその時初めて足を運び、島を一周し、その美しさにすっかり心が奪われたのです。


 


 鬼太鼓座には翌日の28日と、29日、二日続けて足を運んでいます。


 軽い気持ちで訪ねた鬼太鼓座でしたが、同年代の人々が厳しい訓練を行っているのを目の当たりにしました。


 まだまだ三月の佐渡は充分に寒く、廃校となった小学校の体育館を改造した稽古場では上半身裸、下は薄いジャージに素足で皆が稽古しています

 
見学者には優しかったのか、わざわざ僕だけにストーブを用意してくれて、正面で一人、舞台の通し稽古を見せられました。


 ところが‥‥‥


 


 


 とても自分にはこんな事はできない。


 


 


 


 それが当時の素直な感想で、横浜に帰って来ました

 
役者の道を志したばかりで、まだ自分の可能性を追求してみたかった頃なのです。


 


 


 そして四月になって学校の寮が強制退居となり引っ越した先が、保土ヶ谷の星川

 
そこで邦楽の店「鶴星(かくせい)」と出会います。


 東横線・日吉での閑静な住宅街、その周りの住民運動が起こったお陰で、退居となり、三味線を始める切っ掛けとも出会いました。出会いというのは不思議なものです。


 かと思えば、二年生になった学校で「お囃子講座」が始まったのです。これもなんというタイミングの良さでしょうか。


 


 この講座の先生は末永克行さんという方ですが、ここで篠笛と太鼓のバチを初めて手にしたのです

 
ここで練習していた曲はすべて先生の作曲で、伝統太鼓ではありません。太鼓の創作曲なるものともここで出会いました。


 そして学年の終わり頃、先生に声を掛けていただき、太鼓で初めて舞台にも立ちました。


 お金を頂いた記憶はないので、アマチュアとしてですが、先生も気合いが入っていたのです

 
先生の仲間の方が、手作りの腹掛けパッチを体のサイズに合わせて一着一着作ってくれました。仲代達也さんの弟・仲代圭吾さんのシャンソンリサイタルに出演したのです。


 たしか芝のABCホールだったでしょうか、もう嬉しくて堪らなかった。それが顔にも出ていたのでしょう、公演が終わった後、宮崎恭子/隆巴(仲代達也夫人)さんがやってきて、


「あなたの笑顔がとってもキラキラしてたわよ」と思いがけなく誉めて下さいました。これも本当に嬉しかった。


 大太鼓を叩いている先生の横で、僕は何人かと一緒に締め太鼓を叩いていただけですからね

 
舞台というのは、同じ一枚の板の上に立ってしまえば、主役も脇役もないんだということを改めて感じました。


 こうして太鼓への扉は末永先生に開けていただきましたが、まだ役者の芸の一つとして太鼓も練習していた段階です。


 


 


 前後して、鬼太鼓座の公演も初めて劇場に観に行きましたが、まだ恐かった

 
太鼓の演奏だけではコンサートの時間に足らないという事で、先に篠田正浩監督ドキュメンタリー映画作品『佐渡の國鬼太鼓座』が上映され、その後に太鼓の実演(この言い方が時代を感じさせますね)がある二本立て公演


 暗かった・・・


 イメージ自体も暗いのに、舞台照明も異様に暗い

 
無理矢理にやっと見えるか見えないかという灯りの中で叩いたりしていたからだ。観客も目を必死にこじ開けて見ていた。


 とても付いていけそうにはない。


 そこに自分が足を踏み入れる事については、どうしても心がまだ欲していなかったのです。


(つづく)


 


 


 


 


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