太鼓と出会うまでの時間(その2) | 富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』

富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』

太鼓打ち・富田和明の、太鼓と関係あることないことをその日の気分で綴る、和太鼓ドンドコ日記







 初めて佐渡國鬼太鼓座の公演を観たとき(たぶん、77年2月頃)は、「自分もやってみたい」とは思わなかった。


 僕もまだ役者の道の可能性を捨てきれなかったし、あの修行のような生活に自分が耐えられるとは思えなかったからだ。


 


 


 


 横浜放送映画専門学院での二年間、講師の一人である演出家・関矢幸雄先生に本格的に景仰していました。この関矢先生はあまり広くは知られていませんが、とんでもない舞台の天才です。


 一年生が終わった春休みから、この先生に声を掛けていただいて実際の舞台に立つことになりました。嬉しくてしょうがありませんでした。


 


 二年生になってから最初に、僕の初舞台となった、松島トモ子さんのミュージカルリサイタル『絵のない絵本』、宝塚歌劇場での文士劇、オペレッタ出演などなど、ほとんどの舞台で下働き、演出助手のアシスタント的な事をやりながら小さな役を頂いて自分も出演する。


 学校に行きながらも、夜はこれらの稽古が入りますから、アルバイトも早朝の時間帯しかできなくなった。それと昼時‥‥。


 バイトはさておき、学校での授業ではなく、演劇の現場に通うようになり、面白さと共に「これが自分に合っているのだろうか・・・」という当たり前の疑問を持つようになっていくのです。


 芝居は、稽古をしたから上手くなる。というものではありませんし、また稽古をしないと、これもダメです。


 


 たくさんの、本当にたくさんの、役者予備軍、卵たちがひしめいている世界なのです。そこで背伸びをして競争していくよりも、自分でこつこつ稽古をするものの方が、自分に合っているように思えてきました。


 


 


 


 楽器は正直。


 練習しないと上手にならず、またすればするだけの成果を感じることができ、それはまた一生自分の力になる筈。


 そう思えるとどんどん練習して行った。


 ちょうどその頃に出会った楽器の最初は尺八、三味線、そして太鼓に篠笛、学校ではモダンバレエに、タップ、発声など。


 もしここに漫才の授業が加わっていたら、その後の僕はどうなったか判らない。実は演芸が大好きだったから。


 


 


 この学校では僕が卒業した後、漫才の授業も取り入れられ、ウッチャンナッチャンはそこから誕生した。7年ほど後輩になる。出川もそうか・・・。


 僕の時はまだ漫才の授業はなかったけれど、似たような授業はあった。今は亡くなられたけれど、演出家・早野寿郎先生の授業も忘れられない。他にお囃子の授業があったのも僕にとって大きな道標になった。


 


 


 そして卒業。


 


 


 


 高校を卒業する時にも、自分が何をしていいのやらわからなかった。そしてこの横浜放送映画専門学院を卒業する時にもまだ、はっきりとは見えていなかった。


 とはいえ、関矢幸雄先生について行くことしか僕の頭にはなかった。


 


 演劇学校以来二年間、共に稽古に励んできたH(僕より3~4歳ほど年上だったけどここでは同級生だったので)と、二人で先生にお世話になることになった。


 学校には行かなくなり、さらに現場を踏む機会が増した。


 


 


 そして夏を前に、これも関矢先生の演出舞台になる西友ファミリー劇場・堺正章の『そんごくう』に出演させていただくことになり、その稽古が始まった。


 


(つづく)


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


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