西友ファミリー劇場・堺正章の『そんごくう』は、僕にとって初めての大仕事だった。一ヶ月半の稽古の後に、夏休みの40日をかけて日本中の大劇場を巡る。 僕の役は、猿山の猿、村人、仙人の弟子など。中でも大切な役が猿の国の猿だった。
「お客さんから、『上手にお猿のマネをしてるわね~』と言われるのではなくて、『あのお猿さんたちどうやって動物園から連れて来たのかしら~』と言われるように、本気で真剣に猿になりなさい」と関矢先生から言われた。
そしてその指導者として現れたのが、マルセ太郎さんだった。 「スクリーンのない映画館」はまだ始まっていない。 今から28年前、一般的にはまだ無名に等しかったマルセさんだけれど、猿では第一人者だったのだ。関矢先生が、「この人から習いなさい」と、指導に現れたのだから。
初めて稽古場でお会いしたマルセさん。 一瞬にして猿になり、周りの気持ちを掴んでしまう。もちろん僕の気持ちもだ。
「猿の気持ちにならないとダメなんです」 マルセさんは、その為の方法をそこでいくつか教えて見せてくれた。
多摩動物園の猿山にも時間をみつけて通った。 てきとうな気になる猿をみつけて、気持ちを同化させるのだ。自分がそう動いているつもりで、ずっと時間を過ごしているとその彼(彼女?)の気持ちになってくる。
真似るのではなく、その者になること。
稽古場で誉められれば、またやる気も膨らむ。 確か7~8匹(人)の猿だったけれど、集団でのコレは面白かった。 堺さんはもちろん素晴らしいのだけれど、その一人の主役だけが面白い舞台なんてつまらない。他に沢山の面白さがあって舞台の奥行きが出る。 その意味で、この公演の幕開きが猿山から始まる。ここで一気にお客さんの気持ちを掴むのだ。
この公演は大成功した。
堺正章さんは、天才的芸人。フットワークが軽い。どんどん機転がきく。それに加え演出・脇の役者群も乗っていたと思う。 僕も初めて芝居の楽しさを知ったと言える。
7月19日か、20日だったか、藤沢市民会館での初日の興奮を今でも思い出す。
だのになぜ、ここで止めてしまったのか・・・。 これでいいのか、という不安はいつも持ってはいた。 舞台役者は面白いと思う、でも、その裏面の生活が僕に合わないと思っていた。大きな仕事を経験させていただくことで、より、その世界の表と裏の生活を見てしまったのだ。
7月30日・31日と『そんごくう』は、新宿厚生年金会館大ホールで公演があり、僕は公演を終えて帰ろうとした時、小ホール(今はない)搬入口に止まっている鬼太鼓座のマイクロバスをみつけた。
上半身裸で真っ黒に日焼けした男たちが荷を解いていた。
僕は、思わず声をかけた。 「公演があるんですか?」
「明日、あるんです。来て下さい」 そう答えた白い歯が光って見えた。たまたまその明日が、僕の公演の空き日だった。
まるで導かれるように、翌日、鬼太鼓座公演に足を運び、彼らと対面した。 この時の公演は混乱していた(舞台ではなく、裏が)。
事前に前売り券を売りすぎたということで、一回の公演ではお客さんを収容できず、急遽同じ日に追加公演が組まれた。 僕はその追加公演の当日券を買うために並んでいたら、開演時間になりそのまま誘導されて気が付いたら劇場の通路に座っていた。当日のお客はみな席はなく通路に座ったのだけれど、お金を払う時間もなかった。どうなっているのかわからない。とにかく人(客)が多くて混乱していた。 公演が終わった後も、ロビーが大混乱だし(次の公演のお客さんがすでにロビーに入っていた)、僕は僕で気持ちが熱くなったまま、最後まで払わずに帰ってしまった。
今は、こんな例はないだろうと思う。 当時(1977年)でも、そんなことは少なかったと思うが、社会が燃えていた時代(今から思えば)で、この佐渡國鬼太鼓座(さどのくに
この日の公演を観たことで、「僕は佐渡に行く」と決めてしまった(ここでの話は『万里の未知も一打から』に詳しく書いた)。 8月の末まで続いた「そんごくう」公演が終わるのを待って、9月に佐渡を再び訪れ、僕の入座意思を伝え、一週間滞在した。
最後に「それじゃ、まあやってみなさい」という言葉をもらい、僕は一旦戻る。
それで関矢先生に「すみません」と謝り、色々と身辺整理をし、横浜の三畳アパートを引き払い、島は島でも淡路島に帰るのではなく、佐渡島へ渡ったのが、10月1日のことだ。
それから僕の太鼓生活が始まる。
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