東北に行こう!陸前高田、全国太鼓フェスティバル実行委員会に義援金を届けました。 | 富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』

富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』

太鼓打ち・富田和明の、太鼓と関係あることないことをその日の気分で綴る、和太鼓ドンドコ日記

7月31日の夕方に横浜を出発しまして、東北に向かいました。
夜が明けて、
8月1日、最初に向かったのは、仙台空港のある名取市。

僕が感銘を受けた一枚の写真が撮られたのが、この名取市閖上(ゆりあげ)地区だったからです。
ここから海岸線を北上して陸前高田まで行こうと思った。

名取、多賀城、鹽竈(塩釜)、松島、東松島、

と見て回り、松島で風呂に入り、考えた。

このまま北に上がっていくとなると、陸前高田はたぶん明日になる。
やっぱり今日のうちに高田に行こう。


そう考えて三陸道に乗って引き返し、仙台から東北道の一関まで行くことにしました。
車を走らせると、実行委員会会長の及川修一さんから折よく電話が入り、今気仙沼にいるという。
よかった、今日会える。

一関で高速を下りて、先に気仙沼に向かいました。
思った以上に時間がかかりましたが、無事に気仙沼に到着して及川さんとお会いできました。

及川さんは気仙沼まで車の修理に来ていたのです。
ここで先にお話を伺った後、僕は一人で気仙沼の被災地を見て、その後、及川さんより先に陸前高田に向かうことになりました。
気仙沼からは車で30分くらい。

陸前高田は何もなかった。

いや、あるのだけれど、街がなかった。
街がすべて消えていた。

市民体育館は見つけやすい。
まずここに車を止めた。

言葉にならない、
というのはこういうことだろうか‥‥‥。


避難所にも指定されていたこの体育館でも何百人もの方が亡くなっている(正確な数は判らないそうだ)。この巨大な体育館の天井にまで水が押し寄せたとは、とても想像はできないけれど、それは現実のことだ。
僕は、ただ般若心経を唱えるだけでした。





そうしていると、及川さんも体育館前に来られて、改めてお話を聞いた。
たくさんの方が亡くなったこと。
ここで太鼓フェスティバルを22年も続けて開催してきたこと。
僕たち(当時・東京打撃団)が出演した1997年の大会のこと。


富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』-陸前高田01


仮設の市役所に行き、そこで皆さんからお預かりして来た義援金をお渡ししました。


富田和明的太鼓日記『その日の気分打!』-陸前高田02

私の右側が実行委員会会長の及川修一さん、左側が実行委員会の黄川田(きかわだ)次男さん。
実行委員会事務局長さんは今回の津波で亡くなられていました。

義援金の内訳は、7月16日、大太鼓チャリティコンサート当日の入場料収入及び、その日義援金として預かった、122,235円。
チャリティコンサート以外での義援金としてお預かりしていたもの、59,770円。
合計、182,005円。
確かにお渡し致しました。

会長の及川修一さんと事務局の黄川田次男さんから、丁寧な感謝のお言葉を何度も頂きました。

お二人には大変お忙しい中、貴重な時間をさいて、対応して頂きましたこと、本当に恐縮、また感謝しております。
ありがとうございました。

多くの亡くなられた市民の皆様のご冥福をお祈りするとともに、またいつの日にか、この陸前高田の地で太鼓フェスティバルが再開できますことを夢にみております。


被災地を実際に自分の眼で見た感想を書くのは、あまりにも生々しすぎて、まだ書きづらいところがあります。

ただ言えることは、大きく二つ。

一つは、とてつもなく大きく激しい自然の威力。

もう一つは、それでもそれに立ち向かって明日に生きようとする人間の生命力。


詳しく書くには、僕にも少し時間がかかります。